にゅーたのひとりごと

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祖父が旅立って思ったこと

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 3月19日、桜が少しずつ咲き始めたころ 突然祖父が他界しました。
この記事の目的は身内の死と向き合うこと、そしてこれを読んで少しでも誰かが「家族に会いに行こうかな」って気持ちになってくれればいいなと思ったので身内話をつらつら書くことにします。 

 

ちょっとだけお付き合いください。

 

 

| 2度にわたる手術

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3月第1週目、突然祖父が心筋梗塞で倒れたとの連絡が来ました。
これから心臓のバイパス手術を行う、と。いてもたってもいられず仕事を休んで宮崎に帰りました。


久しぶりにみる祖父は、ここ1年の闘病期間のおかげですっかりやせ細っていました。
それまでは元自衛官ということもあり体格のよかった祖父でしたが、1年前に帯状疱疹で倒れ、大動脈剥離で倒れ、歩くこともままならない闘病生活で太ももが腕のように細くなっていました。
「じいちゃん大丈夫?」と声をかけると声を振り絞り「梓帰ってきたとか。ごめん、ありがとう。」と答えてくれました。

 

夜な夜な病院に泊まり込み、手術は無事に成功。
成功の言葉に安堵し、「またゴールデンウィークに帰ってくるね。」と祖父にお別れした矢先に先生に呼ばれました。
「一番大きな血管にバイパスをつなげなかったから、カテーテル手術をしなきゃいけない。でも既に血管がかなり細くなっているから、もしかしたら手術中に心臓が止まるかもしれない。でもやらなきゃこのままICUから出れず弱っていくだけでよくならない。」と。

 

祖父母は手術を選択。
私も一度東京に帰りましたが、また次の週には宮崎に戻ってきました。
手術に向かうなか、祖母が「あいしてるよ」と祖父に声をかけ、祖父も「あいしてる」と答えた光景が忘れられません。


結果は無事に成功。相当きつかったのでしょう。「もう(手術を)やらんでいいとか」と安堵していました。
今度こそ大丈夫、自分で心臓も動かせるようになったし、あとはもうICUから出るだけ。
良くなったら一緒にごはんを食べに行こう。そう約束して東京に帰ってきました。

 

 

|そして次の週の月曜日

家族からいきなり祖父の他界の連絡が入りました。
友達とご飯を食べていたのですが、携帯に表示された文字が信じられず涙が止まりませんでした。

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次の日、また宮崎へ。
今まで一度も泣いたところを見たことがない気丈な祖母から、会った瞬間「梓、じいちゃんダメじゃった」と震える声で伝えられ、一緒に泣き。
祖父の姿を確認しては泣き。正直これを書いている今も涙が止まりません。もう、名前を呼ぶ声を聞くことも叶わない。
しまった、外で書くんじゃなかった。

 

強くて優しい人でした。
祖母と結婚するために自衛隊をやめた話をこうなって初めてききました。
その後石油関係の会社に勤めていたため、大型トラックをよく運転していた 運転がだいすきな祖父との思い出は、いつもどこかに連れていってもらった楽しい思い出ばかりでした。


あまりに急にいってしまったので誰も遺言をきくことができませんでしたが、
だれもが「祖母を頼む」だろう、と思うくらい祖母を大切にしていた祖父でした。
祖母だけではなく、娘も、その子供である私たちも、とてもとても大切にしてもらえました。

そんなじいちゃんに愛されて、家族はとても幸せです。


ありがとう、じいちゃん。よく頑張ったね。
どうか安らかに。

 


|学んだこと

これを身内の不幸というけれど、そうは感じていません。悲しいことに変わりはないけど、むしろ愛されて幸せだったな、と。

 

でも魚釣りとか運転とか、教えてもらいたかったな。
全部、倒れてからじゃ遅いということが身にしみて分かりました。元気なうちじゃないと出来ないことってたくさんある。
祖父母、親が元気な時ってあまりこういうことを考えないけど、これが分かったいまやるべき事は後悔じゃなくて、今いる家族を大切にする事。

 


|さいごに

祖父母の家は浄土真宗です。
浄土真宗の世界では、旅立ちのことを「往生」と言います。死ではなく、「生」きる。
この言葉にどれだけ救われたことか。

 

新しい世界に旅立った祖父と、しばしのお別れです。

またあう日まで。
じいちゃん、本当にありがとう。

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 さて、祖母・母・娘の3世代で旅行でもいこうかな。